最近、幼稚園児が給食のぶどうを喉に詰まらせて死亡した、というニュースが流れました。
とても悲しいニュースですが、直後から「給食からぶどうをなくす」という動きが多く見られたようです。事故防止にはよいのかとは思いますが、少し極端なような気がします。
“ぶどうを出さなければ、ぶどうを喉につまらせることはない”ということでしょうが、喉に詰まる恐れのある食べ物はなにもぶどうだけではありません。このニュースを見て「ぶどうも喉に詰まるの?」と驚かれた方もいるのではないでしょうか。
ぶどう以外にも喉に詰まる危険性があると考えると、どの食材を給食に出すか・出さないかの判断は難しくなります。
ここで大事なのは“ぶどうを出さない”ことではなく“これを機に、食べ方や噛み方などの指導を再確認する”ことではないでしょうか?
喉に詰まることを恐れて食材を引っ込めていては、正月の餅もおやつのグミもガムも与えられないということになります。
現場が「ぶどう」にだけ注意を払っているとしたら、少し的が外れているようにも感じてしまいます。
さて、話しは変わるようですが、近年の運動会では高学年による『組体操』をやらなくなっています。理由は、ご存じの方も多いかと思いますが、組体操の練習中に骨折した児童が多く出た年があったためです。
“そんな危ないことを子どもにやらせたくない”
“児童を危険にあわせるわけにはいかない”
そのような思いや考えがあっての『組体操』自粛(禁止?)かと思われます。
実際に組体操を禁止している自治体・学校もありますし、以前赴任していた自治体では「3段以上には組まないこと」と通達がありました。
“骨折させないために、組体操をやらない。”
これは、“喉に詰まらせないように、ぶどうを出さない”と同じではないですか?
確かに組体操では、ピラミッドの段などが崩れたときに大きな怪我をする危険性があります。でも、“だから組体操をやらない”というのは少し短絡的では?と私は考えます。
組体操の指導を何度もしてきましたが、組体操をやることで身に付くものは、ピラミッドを作るために必要な筋力などではありません。むしろ無理してピラミッドを作る必要はないのです。
大切なのは、“一人では決して表現できないものを、みんなで力を合わせて作り上げること”、逆に“一人でも抜けたら成功できないことから、一人一人の力の偉大さに気づかせること”だと思います。
中には、はっきり言って“教員の自己満足”で『全員ピラミッド』なるものをやろうとする先生や学校もあります。これは学年の児童全員(100人くらい?)でひとつのピラミッドを作るというもの。確かに、成功したときの見た目は壮大かもしれませんが、失敗して崩れたときのリスクはとても高いものがあります。
そんなことを子どもたちに強いるよりも、子どもたちのできる範囲で(もちろん教育的な成長の伸び代はもたせたうえで)できることをさせるのがよいと思います。
ピラミッドは2段でもいい。人を支え、人に支えられてひとつのものを作る、そこに組体操の大切さがあるのだと思っています。
骨が折れてもいい、とは思っていません。
でも、骨折をさせないために組体操を諦めるには、得難いものも得られなくなる、と考えています。
タイトルにも書いた“骨折り損”という言葉。
文字通り骨を折るのではなく、意味の通り“骨を折る=大変な苦労や努力をする”ことは、大人の判断でなくしてはいけないのではないか、と思います。
ましてや“うちの学校で怪我人が出て、ニュースにでもなったら”と自分の身だけを心配しているような管理職の判断では…。
フリマアプリ「メルカリ」で販売してます https://www.mercari.com/jp/u/912059273/
☆メルカリshopに
『てんちょの折り紙手芸』を
オープン致しました♪
→ #てんちょの折り紙手芸